人生はプラスマイナスゼロなのか。試練が多い人や不運が続く時期のスピリチュアル
- S H
- 2020年10月5日
- 読了時間: 13分
2021-04-25更新 2020-10-05投稿
2021年、更新しました!

実りの秋がやってまいりましたね。秋は作物だけでなく、昨年の冬から行っていた「行動」が実りやすい時期でもあります。どうぞ収穫を楽しまれてくださいね。
収穫の秋と言えども、中々先が見えないという方もいらっしゃるかもしれません。
当記事では「人生はプラスマイナスゼロなのか」というテーマを扱ってみました。
長文ですので「もくじ」をご活用の上、気になる個所をお読みくださいね!(各章に直接飛べます^^)
もくじ
人生はプラスマイナスゼロなのか
「人生苦あれば楽あり」。
日本人にはおなじみの言葉ですね。
確かにその通り。しかし、どうも人によって「苦」や「楽」の量は異なる気がしてます。
そして苦が沢山ある人には楽も沢山あるかというと、そんなに単純な話でもないように思います。
美輪明宏さんが提唱されている「正負の法則」のように、人生におけるプラスとマイナスの量は同じと言えるのでしょうか。
私は高校時代から美輪さんの著書を愛読していたのですが、その中で正負の法則について半信半疑だった時期も、それなりに信じていた時期も、信じていなかった時期もありました。
スピリチュアルなお仕事を行うようになった今、果たして人生はプラマイゼロなのか・・・自分なりの答えが見えて来ました。
苦あれば楽ありは、人生の法則なのか
正負の法則を感じさせる言葉は昔からある
故事ことわざなどの中には、どこか「正負の法則」を感じさせる言葉が複数あります。古くより人々は、正負の法則のような実感があったのだと思います。ざっくり見てみましょう。
■「苦あれば楽あり」類語の例
雨降って地固まる ・ 諍い果てての契り ・ 楽あれば苦あり ・ 禍を転じて福と為す(災いを転じて福となす )・ 怪我の功名 ・ 人生万事塞翁が馬 ・ 結果オーライなど(参照:weblio)
■「残り物には福がある」
人と競って先を争うのを戒めるときに使う。また、順番が後になった人を慰めるときに使われることが多い。 我先にと人を押しのけるよりも、人と争わず遠慮深い人にこそ幸運があるということ。(出典:故事ことわざ辞典)
■「大器晩成」
大きな器は完成するまでに時間がかかることから、真に偉大な人物も大成するのが遅いということ。大人物は遅れて頭角を現すということ。才能がありながら不遇である人に対する慰めの言葉としても用いる。(出典:goo辞書)
これらを見ていくと、「慰めの言葉」としても機能していることも分かります。
心すこやかに、しなやかに生きていく知恵という側面あるのでしょう。
そして「真面目にやっているのに不遇である人へのいたわり」「我先にと他を押しのけることの無い人へのねぎらい」など、HSPさん・繊細さんとも相性の良い考え方だと思います。
法則であり、知恵でもある
何より、人や社会全体が成熟してゆくためにも、必要な考え方だと思います。
成熟した思考は、レジリエンスを強化させます(=逆境を乗り越え、しなやかに強くなる力が身につきます)。
しなやかに磨かれた彼らに待っているのはやはり次の幸運、新しい形の幸せ、来るべくして来た福などでしょう。
「正負の法則」や「苦あれば楽あり」などの考え方は、法則でもあり、しなやかに生きていくための知恵でもあると思うのでした。
この辺りはあくまで、いちスピリチュアリストの感想です。故事ことわざ等について詳しく知りたい方は、専門書などでお調べくださいね。
正負の法則。体験談をブログに
それでは実際に、スピリチュアルのお仕事に携わっている私自身はどうだったのか、実体験から感じたことを書いてみます。
私は幼少より人に言いづらい苦労が長期的にあり、そもそも人に話すことが中々出来なかったため(場面緘黙)、ずっと見過ごされてきました。重く暗い話や性に関する出来事もあり、詳細は「note」有料記事内*で書いています。
(*noteというプラットフォームは、誰でも有料記事を作ることが出来ますし、匿名で記事を購入することもできます☆)
また私は超HSPという気質からか、幼少から「頼まれごとを断れない」「良からぬ行いをしている人をもかばう」といった傾向もありました。身内だけでなく、クラスメイトなどに対しても。
ただ無言で背負うなんてこともあったのです。その辺りの正負はどう清算されるのでしょう。
HSPさんは、悪知恵が働く人から、酷い目に遭ったこともあるかもしれません。本当に天網恢恢疎にして漏らさずなのでしょうか。
HSP、繊細さん、優しい人たちは損なのか?
正があまりこない具体例(工夫しづらい幼少期やコミュニティの中で)
HSPや繊細さんは、例えば、人が怒鳴られるのを見るだけでもつらいですよね。できれば平和的に解決するとよいと願うのですが、緊張状態に置かれると、HSPさん自身のペースが乱れることもあります。
私が小学生の頃のエピソードです。
ある日、給食の時間が終わった後、私達の班(5~6人くらい)付近の床に「マーガリン」が未開封のまま1つ落ちていたことに先生が気付きました。
その日の給食は、食パンにマーガリンの小袋がついていたのです。
先生が拾い上げ「食べていないのは誰ですか!」と怒鳴ります。その時点で明らかに怒っていました。[※超HSPのせいか、感情に強く結びついた記憶が残りやすい]
私達の班に向かって先生は「一人一人、食べていたかどうかを、調べます!」といったことを言いました。
「Aさんがマーガリンを食べているのを、他の人(隣や向かいの人)は見ましたか?」
こんな調子で、一人一人確認していくという訳です。今思えば、精度の低い調べ方ですね^^;
私は超HSC、つまりひといちばい敏感な子供だったため、心の中でこんな感じのことを思いました。
「マーガリンを食べなかった人にも理由がある。嫌いで食べられないのかもしれない。それなのに、先生から皆の前で怒られるのはかわいそうだ(食べたくないものをどうにかしなくてはいけなかったことと、怒られること、ダブルできついだなんて)」と。
そのため、班の人全員に「見た」と言おうと決めたのです。
先生が
「Aさんがマーガリンを食べているのを、他の人(隣や向かいの人)は見ましたか?」 「Bさんがマーガリンを食べているのを、他の人(隣や向かいの人)は見ましたか?」
と順番に調べていく度に、私は「見ました!食べていました」とはっきり言いました。普段はとても内向的であるにも関わらず。
先生「Cさんがマーガリンを食べているのを、他の人(隣や向かいの人)は見ましたか?」
私「見ました!食べていました」
Cさんは、少しきょとんとしています。
私「見ました」
先生が私を見て、こんな感じのことを言いました。
「誰だか分かりました。もういいです」
・・・
先生は、私だと思ったようです^^;
複雑な気持ちになりました。
・マーガリンが余っていたかもしれないし ・嫌いだったんじゃなくて、気付かないままだった可能性は? ・私、むしろ他のおかずが苦手で、パンは食べやすい。マーガリンがある方が好き
などなど。
ですが、内向的な小学生だった私は、上手に説明することもできなかったのでした。
ちなみに「誰かをかばって自分がヒーローになる」という正義感や喜びから行ったわけではありません。
誰かが怒られるのを見ることが辛い。それに、そこまで怒られる必要性も感じないといった思いから、それを未然に防ごうとしたのです(マイナスを減らす)。
マーガリンの件は、後で感謝されることもありませんでした。もちろん、本人に頼まれた訳でもありません。幼い私が誰にも言われずに行ったことです。
境界線を引く。身代わりにならなくてよい理由
・・・これは子供の頃のお話でしたが、大人の読者様は、誰かの肩代わり・身代わりになったが、損ばかりして中々「正」が見えない・・・という方もいらっしゃるでしょう。
感謝されるどころか、いつの間にか周囲から「悪者」にされて「自分以外は一件落着」ということも。自分だけが耐えればいいのでしょうか。そうではないですよね。
今言えることは、特に繊細な方は「始めから背負い過ぎない」「境界線をしっかり持つことは大事(自分にとってもお相手にとっても)」ということです。
小学生の頃の例でいうと、怒られる予定だったはずの子は、怒られても私よりダメージが少なかったかもしれません。
大人になった私達は、より冷静に話し合うことも、嵐が過ぎるのを待つことも、そこから逃げることもできます。
お相手の負を簡単に背負ってしまうと、お相手の成長の機会を奪うことにもなります。まずは自分自身のプロテクション力を磨くことがよいかと思います。
不運が続くとき、感謝の効果
次は繊細さんではない例です。過去にこんなこともありました。
権威ある職業についている、地位も名誉も経済力も十分にある人物がいました。
「私達だって、大変だ。子供が~~~で、家が滅茶苦茶になっている」といったことを打ち明けてくれたのですが、それは一般家庭においても起きている内容でした。
一般家庭や困窮している家庭で同じことが起きると、彼らよりもっと困難であると予想されます。そうなると、負+負になってしまいますよね。(もちろん、例外はあると思いますが)
他にも、豊かな暮らしをしている美しい女性が「私には何の取り柄も無くて」と悩んでいましたが、不自由のない生活を送りご主人やお子さんから頼られている様子!びっくりしました。
もっともっと深刻に、普通の生活が送れず悩んでいる方も確実におられます。
誤解を恐れずに言うと、正+負だけでなく、負+負の人もいるようなのです。
私自身も長い間「普通の生活を送りたい」と切望して来ました。何も偉くなって豪遊したいなどと欲にまみれた夢を見ていたわけではありません。
自分らしさを活かせる居場所と役割が欲しかったのです。だけど、働くことすらかなわないのです。
正負の法則だけでは片付かない気がしました。比べ物にならないくらい深刻な国もあるでしょう。
だからといって、神様などいないと決めつけ、「自分が恵まれていない部分に注目して生きる」「自他を信じずに生きる」ということをしてしまっていた時期が、最も運気を下げていたように思います。
セラピストになってあらためて気付かされました。
■せっかく恵まれているところがかなりあるのに、感謝に目を向けることがあまり出来ておられないかた
■ただでさえ困難な状況なのに、追い打ちをかけるような試練が訪れているかた
どちらの場合でも、その中間の場合も、ありがたいこと・恵まれていること・出来ていることなど「感謝」に注目するのは、生きていく上での前向きなエネルギーになり得るということです。
上手く行っていることに感謝しながら現実的な対処をすることで、「負」「禍」と感じていたことすら「正」「福」に転じることがあるようです。
人生、帳尻が合わないのではないか?
どのようなことにも「正と負」「プラスとマイナス」「光と影」「陰陽」の側面があるというのは、スピリチュアル界ではよく聞く話です。
しかし、「人生、最終的には帳尻が合う」・・・これについては信じることができないでいました。
ニュースなどを見ていると、誰もが人生の帳尻が合うとはとても思えないのです。
ここでは「前世」という概念を持ち込んでいません。(必要な方は取り入れてよいと思いますし、必要な時期とそうでない時期もあるでしょう)
私自身、幼い頃からこれまでの人生の中で、ネットでは書けないようなつらいこともありました。
専門家に相談しても「あなたはまだ若いから大丈夫よ」とずっと言われてきました。
特に同性の方からは、若さへの嫉妬のようなものが見え隠れするときもあり、それ以上相談しづらくなるのでした。
実際は女性が若くて一番綺麗だと言われる時期も、私は人に言えない悩みを隠し通して生きていたのです。成人式も卒業旅行も行っていません。
同級生たちが結婚、出産など迎える中、私は無職で孤独でした。その頃、私は以下のように感じていました。(今は違う部分もあります)
・今後、正負の帳尻が合うような大きな幸せが訪れるとはとても思えない。
・大きな苦労した人は小さな喜びに感謝できるというけれど、虚しくないかな。そんな考えだと、虐げられている人が、そこから抜け出せないのでは?
・愛されて天真爛漫に育ったお嬢さんだっている。プラスにプラスだ。彼女たちのように堂々と喜びに感謝したい。
・「長年苦労してきた分、とびきり良いことが待っている」と言われるけれど、例えば晩年に偉業を成し遂げる、というのは私には要らないので、今、平均的な喜びをください!
・一人で『マイナスからゼロ』の地点まで持って行くような惨めな努力ではなく、年齢相応の悩み・・・例えば「結婚して子供たちと一緒に成長する」といったことを経験したい。
・・・などなど。思っていました。
皆様にも、皆様自身の魂が体験しに来たことがきっとあるはずです。そのスタートラインにすら立てないマイナスは、中々意味が分からないものです。
だけどそれを乗り越えてきた人には、上から目線ではない、特有の優しさや芯の強さ、慈悲深さを持っているように思います。
人生の帳尻が合いだす?正負の法則、ずっとつらかった人生に訪れたものは
私がスピリチュアル依存や電話占いへの依存などを乗り越え、ほんの1冊の市販のノートで引き寄せ日記を始めてから、沢山の願いが実際に叶い始めました。
自分には「出来るはずもない」と考えていた、スピリチュアルのお仕事。特に派手な広告もせず、無理のない程度に続けられています。
(※スピリチュアルのお仕事は、正社員などにならなくても、例えば100円の記事がどなたかに購入され、喜ばれたのであれば、もうそれは自らの手で素敵なお仕事を生み出した【神様や宇宙からお仕事をさせていただいた】と言えるでしょう)
このお仕事を始めてからは、私のつらかった経験や変わった気質など、今まで苦労してきたところが反転するようにして役に立つようになりました。例えば以下のように。
・つらかった経験は、今まさにつらい人へ、上から目線でなく耳を傾ける姿勢に繋がりました。
・過去の酷い惨めな経験をしていますから、ご相談者様の相談内容に「変だ」「おかしい」など思うことがありません。(むしろ私も同じようなことを経験していることも多い)
・自分でも持て余していた超HSPの感覚処理感受性は、スピリチュアルリーディングなどで役に立ちました。
・相手を洗脳することなく、されることもなく。たましい年齢で上下を作ることなく、地球上に生きている「同期」として見ることができるようになりつつあります。
などなど。
前章でも書いたように、私は「人生のこれまでの苦労が報われるには、そうとう大きな幸運がないと帳尻が合わない。もう間に合わないだろう」と感じていました。
しかし、その「そうとう大きな幸運」というものは、
自由に使える大金が入る・誰もが羨む結婚生活・華やかなお仕事で活躍・・・といった「大きさ」「派手さ」「分かりやすさ」だけではなかったのです。
私に実際にやってきた幸運は、「自分がこの人生で本当に価値を置き大切にしているエッセンスが実る」というものでした。
派手な大きさの幸運が舞い降りたのではなく、質の問題だったのです。
じんわりと「ああ、生きていてよかったなぁ」「これまでのこと、つらかったけど、もう上回る充足感を得た」というような感覚を知り始めました。
無理に「私は幸せだ、ありがたい」と言い聞かせている状態とは異なり、実際に生活自体も随分改善されました。多少の波はあっても、昔よりずっといいことは確かです。
・例えば、愛する人からの、心からの一言。そのぬくもり。
・自分に合ったお仕事ができるようになった喜び。
・他の人の夢や願望とは異なるけれど、それが成就したとき。
・宇宙や地球、細胞と仲良く生きていくような感覚。
などなど
そういったことで、過去の出来事が報われるということもあるのです。
「正負の法則はある。人生は帳尻が合うようにできている」と思う人は、そうなりやすいでしょう。
「沢山いいことがあったから、お福分けさせていただこう」「お世話になった人へのお礼、神社へのお礼参りをしよう」そういった方は、負が届いても大難を小難に、小難を無難にすることができる人かもしれません。
また新たなる福も、やってくると思います。
「人生はプラスマイナスゼロなのか」その答えですが、ある程度自分で決めることができるようになった時代かもしれません(完全にではありませんが)。
世界はもう、昨年までとは異なります。
私達も、今世で体験したい信念を選び、そのような人生を選択してまいりましょう。
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